2010年6月12日土曜日

Drive eXperience III

 
土曜日は週一の通院の日だ。今日は10時過ぎに終了したので、近場を当てもなく気ままにドライブした。ある坂道を下っていたら、急にある場所に行ってみたくなった。
行こうと思ったのは神社なのだが、名前が思い出せないし、行ったこともない。覚えているのは、大まかな地域とあるキーワードだけ。クルマを駐め、調べることにした。
iPhoneとカーナビでなんとか検索することができた自宅からだと10kmくらいだ。


目的の場所は「師岡熊野神社」。横浜市港北区にある。


ありがたい雰囲気が漂う。


鳥居の下から撮影した。


予想していたより小さな神社だ。帰宅してから神社のHPで調べてみた。

---------- 師岡熊野神社公式HPより -------------------------------------------------------
この神社は聖武天皇神亀元甲子年(西暦724年)に全寿仙人によって開かれ熊野山の中腹に鎮祭し和歌山県熊野三社の祭神と御一体であります。
仁和元年7月には光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向され「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜わりそれ以来宇多、醍醐、朱雀、村上天皇の勅願所として社僧十七坊が附せられた。数多くの古神事の中に現在続行されて居る筒粥神事は1,050回余にもなる。
観応2年6月17日雷火のため社殿は消失したが神体、社宝は無事であり特に貞治3年の熊野山縁起は現存して神社の故事を伝へて居る。例へば勅使着用の大口袴は大口の地名に残り、供奉者の足を洗った子安足洗川、顔を清めた西寺尾町字面滝、馬の鐙を納めた鐙宮(阿府神社)参向儀式の行われた式坂、更にいの池(指定地域史跡)、のの池ちの池の故事等、枚挙にいとまがない。
享禄2年北条早雲公、慶長4年徳川家康公、寛永19年家光公、寛文五年家綱公より御朱印地を戴いたのを始め代々の将軍家の崇敬極めて篤く神社への御朱印は幕末まで続けられた。
明治元年神仏分離の際、熊野神社と法華寺とに二分され明治3年県社に列格したが、氏子の陳情する所あって明治6年三十三ヶ村の郷社に列した。
 その後、各所の整備造営工事を行ってきたが、遂に今般「平成の大修造」と称し、覆殿・翼殿をはじめとする壮大な造営事業を実施し、面目を一新した。

当社は、関東地方における熊野信仰の根拠地として、また、横浜北部の総鎮守の宮として古代より現代に至るまで広く篤い崇敬を受けている。
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肝心なことが書いていない!


ヒントはこの提灯にあった。まず、正面から撮影。


横から撮影した。この鳥を見て分かる人いるかなー。


この鳥は八咫烏(やたがらす)という。日本神話で、神武東征の際に、タカミムスビによって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる3本足の烏である。しかし、3本足と明記はされていないそうだ。
日本サッカー協会のシンボルマークに用いられているのは、3本足で足技が優れていることを意味しているのだと勝手に解釈していたが、Wikipediaなどで調べてみたらまったく違っていた。
東京高等師範学校(現筑波大学)の漢文学者であり、日本サッカー協会の創設に尽力した内野台嶺らの発案を基に、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助(内野台嶺の東京高等師範学校の先輩でもある)に敬意を表し、出身地である那智勝浦町にある熊野那智大社の八咫烏をデザインした物を1931年に採用されたそうだ。


境内には日本代表を応援する大きな絵馬があった。


日本代表を応援する絵馬を購入すると、大きな絵馬の裏側にコメントを書くことができる。


拝殿の中にも大きな絵馬があった。監督や代表選手のサインがある。
日本の初戦の相手はカメルーン。6月14日(月)は皆で応援しよう。私は翌日から大阪出張なので、朝4:30に起床せねばならない。火曜日の仕事が心配だ。
 
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