2010年3月11日木曜日

川喜田半泥子

  
横浜にある「そごう美術館」で開催されている『川喜田半泥子のすべて』の招待券を入手した。
私がデザインに興味を持ったのは、陶芸の世界で使われる「用の美」という言葉を知ってからだ。
インターネットで調べると「用の美」とは「使うことに忠実に作られたものに 自ずと生ずる自然で暖かみのある美しさのこと」と説明されている。
「用の美」と「機能美」。違いを理解し、使い分けていきたい。


川喜田半泥子については、Wikipedia(2010年3月11日)では、以下のように解説されている。
とても楽しみだ。

川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年11月6日 - 1963年10月26日)は、日本の陶芸家、実業家、政治家。「東の魯山人、西の半泥子」と称される。本名は政令(まさのり)、幼名は善太郎、通称は久太夫、号は半泥子。

大阪府生まれ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となった。母は実家に帰され、祖母の手によって育てられた。三重県尋常中学(現・三重県立津高等学校)卒。1903年に百五銀行の取締役に就任。1919年に頭取となり、1945年2月まで頭取を務めた。1909年からは津市議会議員、1910年からは三重県議会議員を務めた。陶芸は趣味で、当初は陶工に作らせていたものの納得が行かず、50歳を過ぎてから自ら作陶するようになった。主に抹茶茶碗を製作した。作風は自由奔放でおおらかと評される。陶芸のほかに、書や画もよくしたが、あくまでも趣味としての立場を貫き、生涯に一作品も売ることはなく、出来上がった作品は友人知人に分け与えた。

豊富な財力で、1930年に財団法人石水会館を設立して文化事業を支援した。また、1942年「からひね会」をつくり全国の陶芸家と交流を持ち、荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休雪ら3人の人間国宝を支援した。

死後、石水会館は半泥子が生涯をすごした津市に石水博物館を設立し、川喜田家に所蔵されていた半泥子の作品を公開している。
  
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